TRUE COLORS 04
ONENESS CREATIVE
メッセージをくださった皆様、ありがとうございます!!
ハルさん
匿名希望さん
ハル さん
中学1年生のある日、朝起きたら母がいなくなっていました。それから厳しい父とまだ小学1年生の妹ともがいて生きてきました。
決して裕福な環境ではなかったので、ものをねだる事を知りません。お金のかかる部活はもちろんNG。茶道、華道等女子定番の部活には縁がありませんでした。
進路も「国立なら奨学金で行けるかも」と言われましたが、そこまで頭は良くなく、進学校でありながら就職を選択したのです。
成人式も着物なんてもっての他、自分でアルバイトしてスーツを購入し、成人式に参加しました。
幸い一つの仕事と縁あって一筋でやってきました。
結婚したものの子供には恵まれず、主人の稼ぎでは生活出来ないので自分で稼ぐしかなく、家事との両立を頑張って来ました。
そこそこ蓄えもあり、自分の稼いだお金だし、ねだる相手はいないけど、自分でもっと良いものを買って身につけてもいい年代だと思いますが、思い切ったお金の使い方が出来ません。細々でも生活出来ればそれでいいや。と、思っています。
人並みの生活?を送って来なかったので、一般の人には当たり前の事が、よくわからないというコンプレックスを持っています。着物の話?子供の話?親戚付き合い?自分の生活範囲は狭いと思います。一日中家にいても苦になりません。
小学生の時にクラス全員敵に回していじめにあったりしたけど、中学では楽しく過ごしたし。2度も手術を経験し、2か月以上入院した事もあるけど、今は普通に仕事してるし。
色々な経験をしました。
だけど、まぁ、やりたい事はクリアして来たと思います。英語を学んで英語劇にチャレンジしたり。若い頃海外へ行ったり。好きなアーティストに夢中になり、ライブに行きまくったり。昔から興味のあったヨガを始めたり。
だからやっぱり人生は山あり、谷ありなのです。
こんな私が「どんな風に生きていたいか」というと「感動と出会いたい。」につきます。私の中の感動の基準は泣けるかどうか?
感動の嗅覚は鋭いので、私が「これだ!この人だ!」と思った人はみるみるうちに人気者になったりします。
これからも感動する事に沢山出会えるようにアンテナを張っていきたいと思います。
そんな中時々過るのは、
「感動を与えられる人になってみたい。」
それは心にしまってあるささやかな夢です。
匿名希望 さん
私には2つ年下の弟が居ます。小学校の時は喧嘩もしましたが、普通の姉弟でした。
しかし、弟が中学、高校と進むにつれ、ほとんど口もきかない状態になってしまいました。特別な事があった訳ではなく、何となく薄気味悪さを感じていたのです。 弟は両親に相談する事もなく勝手に大学を辞め、仕事に就いても長続きせず20代後半、引きこもる様になりました。
私は既に結婚し家庭を持っていました。お正月、家族でお年始に行くと少しだけ顔を出す事もありましたが、次第にそれも無くなりました。子供達も我が家で、弟の事を話すのはタブーだと感じていたようです。 実家では包丁を魚焼きグリルの中にしまってありました。弟からの暴力もあったようです。
そんな状態のまま月日は流れ、父は認知症を発症しました。この頃の母の心労は相当なものだったと思います。私も出来る限り顔を出すようにしていました。
その日、ケーキを買って実家を訪れました。母と話をしている間、キッチンに置いてあったケーキが箱ごとグシャグシャに潰されていました。
「どうしてこんな事をするのか?」
悔しくて悲しくて、既に居なかった弟ではなく、母に涙声で訴えました。
「死んでくれたらいいのに…」
家庭内での殺人事件や社会に馴染めず事件を起こした人のニュースを聴くたび、他人事ではありませんでした。
子供も成長し結婚を考える年齢にもなり、もし弟の事で破談になるような事になったら…
「お母さん、どうしてもっと早くおじさんの事、考えてくれなかったのか…」と私が責められる、子供に申し訳ない。
母が…とか、弟が…では無く、私が自分を守るために保健所へ相談に行きました。
最初は1人でしたが、回数を重ねるうち、母も一緒に行く様になりました。現在の状況や困っている事、病院へ受診させるには等…
そこで過去に両親も悩み色々、相談していた事を知りました。大の大人を首根っこ捕まえて病院へ連れて行く事は出来なかったと…
そして相談員さんから言われていたのが
「もし身の危険を感じたなら警察に連絡する事、それは弟本人のためだから」と言われ
私も実家へ行くたび
「警察に連絡する事を躊躇わないでね」と伝えていました。
保健所で相談を開始して2カ月くらいたった頃、母から泣きながら電話がありました。すぐに警察の人と代わり
「病院へ来て下さい」との事
「何が起きた?怪我した人は居るのか?」
状況が分からず不安なまま病院へ駆け付けました。
精神科を2ヶ所受診し統合失調症と診断され措置入院となりました。
弟は近所の人に掴みかかり、窓に石を投げました。認知症の父は、弟の事を問われると
「兄貴の子だ」と言ったそうです。母は
「お父さん、違うよ。この子は私達の子供だよ」と…
認知症とは言え、父の言葉はどれだけ母と弟を傷付けたのかと思うと苦しくなりました。
『弟は病気だった』
20年近くくすぶっていたものが、やっと晴れた気がしました。母には
「お母さん、警察に連絡出来て偉かったね。頑張ったね。」
あれから5年が経ち、弟は措置入院は解かれたものの未だ病院に居ます。施設で共同生活が出来ればと試みましたが、弟にとってはストレスだった様です。恐らく一生病院での生活になるのでしょう。
父は2年前に亡くなりました。弟が外泊して実家に帰って来る時は3人で美味しいご飯を食べに行きます。母が小さな声で「疲れた」とこぼすと、薬のせいか、小刻みに震える手で肩を揉んでくれるそうです。 弟を通して私は色んな事を学び、気付きました。
ご近所に迷惑を掛け、白い目で見られても当然だったかもしれない、でも母は今も近隣の方に見守られ助けて頂きながら生活しています。本当に感謝しかないです。人々の温かさ優しさを充分感じています。きっと母の人柄や日頃からの行いも認めて頂けたのかと思います。
弟に対しても穏やかな気持ちで接する事が出来る様になりました。病気だと診断されるまで本人が1番苦しんでいたかもしれない。母に弟のことを「死んでくれたらいいのに…」と言ってしまったのは、本当に申し訳ないと思っていますが、今の生活があるのは、あの一言がきっかけだった様にも思います。
長男は結婚し、可愛いお嫁ちゃんには私の口から弟が病院に居る事を伝えました。
まとまりのない文章ではありますが、当時を振り返り、こうして書くことで改めて自分の心の中を整理出来た様に思います。
ありがとうございました。
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